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October 06, 2023
シリーズ いまここ
vol.2 『スパイスロード』『薬院スパイス』高田健一郎さん
この人は、この場所は、
どんな道を歩んでここに辿り着いたのだろう。
今ここが面白いんだから、
これまでの道程もきっと面白いはず。
興味深いモノ・コト・ヒトに出会ったとき、
ふと頭をもたげる小さな好奇心。
日々に埋もれて消えていく
そんな好奇心に、たまには従ってみたい。
そんな思いつきで始めた
シリーズ『いまここ』。
不定期でお届けします。
高田放浪記
〜スパイスカレーとの出合い〜
今回お話を伺うのは、“福岡のカレー好きに知らぬ者なし”といわれた、スパイスカレーの人気店『スパイスロード』のオーナー・高田健一郎さん。
“放浪人生”を経験した後、博多駅前での移動販売からカレー屋を始め、高砂での『スパイスロード』出店、そして人気絶頂の中での閉店と、“高田さんの人生に安定期なし”といっても過言ではない人生を歩んできた。
そんな波乱の半生について伺うべく、現在は『薬院スパイス』としてスパイスキットなどの販売を手掛ける高田さんを訪ねた。
高田さんが大学生になったのは、バブル真っ只中のフリーター“奨励”期。高田さんも大学1年からほぼフリーター状態になり、25歳頃まで世の中を放浪していたという。
(高田)「“若者よ世界に飛び出せ! 夢を追え!”というような時代でしたよね。僕もフリーターをしながら、映画の学校を受験してみたり色々やりましたが、見えてきたのは社会の厳しさと汚さばかりで、なんだか嫌になってしまって。そんなとき、一緒に住み込みで働いていた同僚が、ワーキングホリデーでオーストラリアに行くというので、“これだ!”と思って僕も行くことにしたんです」。
25歳でズバッと日本を飛び出した高田さんだったが、英語はできず、学歴も職歴もない中、ありつけたのはオーストラリアでのワーホリ定番ジョブ、フルーツピッキング(果物の収穫など、農場での体力仕事)のみ。しばらくはそれで食い繋いだものの、やがてお金も尽き困り果ててしまう。そんな中、なんとか中国人が経営する日本料理店で皿洗いとして雇ってもらえることに。しかもそこでは、衝撃の出合いが待っていた。
(高田)「その日本料理店は多国籍のスタッフが働いていたのですが、彼らともっとコミュニケーションを取ろうと、カレーを作って皆に振る舞ったことがありました。するとそれを食べたマレーシア人が、“俺はもっと旨いカレーが作れる”と言ったんです。“じゃあ作ってよ!”ということで、翌日彼のカレーを食べたのですが、これが衝撃的。旨さはもちろん、それまで食べたことのない味で。この時が僕のスパイスカレー初体験でした」。
大反省して就職のはずが、まさかの!?
高田さんに衝撃を与えた、マレーシア人シェフによるインド系チキンカレー。その後ホームパーティなどでこのカレーを再現し、大いに喜ばれたりはしたものの、本格的にカレーの道に入るのはまだまだ先。“30歳までは好きに生きていい”という従兄弟の言葉を支えに、人生の放浪ともいうべき暮らしが続いた。
彼女との結婚を考え帰国したのに、定職に就かずシナリオライターを目指し始めたことで破局したり、ラーメン店の仕事に正社員として打ち込んだものの、近しい人の死に直面して道を考え直したり⋯。
(高田)「そんな調子で35歳まで来たのですが、もう求人を見ても年齢的に正社員の募集がなくなってきたんですよね。そのときに心が折れたというか、初めて“自分が悪かったんだ”とこれまでの人生を反省する気持ちになりまして。それで安定した仕事を探し、なんとか大手の食品会社に決まりそうなところまで漕ぎ着けました。ところが、翌日に二次面接を控えた晩、後輩たちと飲んでいたら漫画みたいな賭けをすることになってしまいまして⋯」。
結果的には、その“賭け”が高田さんにカレーの道を歩ませることになるのだが、当時の高田さんの状況からすればとんでもない話だった。それは、「今から1週間後に博多駅前でカレーの移動販売をオープンできるか」というもの。
飲みの席での売り言葉に買い言葉と思えば、「できらあ!」と啖呵を切った高田さんの気持ちも分かるが、問題は翌日シラフになっても、高田さんがその約束を守ってしまったこと。食品会社に電話して二次面接を辞退し、後輩が持っていた“おんぼろ車(バン)”で、先の見えないカレー道を突っ走ることになったのだ。
初日の売り上げは2杯で千円
移動販売でカレー道スタート!
当時は移動販売のことなど何も知らなかったという高田さん。前日に徹夜で仕込んだカレーをバンに載せ、とにかく博多駅前の路上に出店することはできた。約束から1週間という期日も守り、後輩との賭けには勝ったが⋯。
(高田)「カレー1杯500円でしたが、初日に売れたのは2杯だけでした。でもよく考えたら売れなくて当たり前なんですよね。ただのバンにカレーが積んであるだけだし、この見た目じゃあ、そりゃ誰も買いに来ないよなと。それで次の日に布を買いに行って内装をキレイにしたり、シェフコートも着るようにしたり。そんなことをしていると1カ月後には日に20杯くらい売れて、1年後には行列ができるようになりました」。
無茶なスタートながら、確かな味とトライアンドエラーの積み重ねで何とか軌道に乗り、やっと人気店というところまで辿り着いた。ところがその僅か半年後、計1年半で移動販売は終了することに。
(高田)「あるとき、地域の刑事さんが来て“道交法違反だ”と言われました。今頃になって何で? と不思議がっていたら、刑事さんが教えてくれたんです。“周りのお店から通報があったんだよ。ランチのお客をさらわれて、いい気持ちがするわけないだろ”って。そう言われてハッとしました。自分も飲食をやってきたので、言われてみればその方々の気持ちはよく分かるんです。それで移動販売はすぐに止めました。そして、“店を持とう!”と決めたんです」。
『スパイスロード』誕生
エピソードだらけの高田さんの半生だが、初めて店を持ったときのエピソードもまたすごい。高田さん曰く“何らかの力が働いていると感じる瞬間”が、次々に訪れたのだ。
(高田)「開店資金のために運送会社で働いていた頃、心配のかけ通しだった父が弱ってきて、母から「何かあなたのことで形になるものを見せてあげなさい」と、まとまったお金を渡されました。とはいえ自分の貯金と合わせても開店に十分というところまではいかず。でも良い物件が見つかったので、何とか少ない資金でやれないかと試行錯誤していたんです。そしたらまず、10万円はするような新品のトイレが道に落ちてて。モデルルームで使っていたもので、もう使わないから持っていっていいよと言われ、工務店で働いている先輩と二人で店に取り付けました。次がダクトです。業者さんに設置してもらうと40万くらいかかると言われ、どうしようかと思っていたら、木材を買うために訪れた材木屋さんに落ちていたんです。お店の方が持っていっていいよと言われたので、また先輩と取り付けました。それから冷蔵庫は、器具屋さんで譲ってもらいました。これも普通40万くらいするんですが、イベントが終わって使わなくなったものだからタダでいいよと。さすがに悪かったので、このときは2万円だけお支払いしました」。
“何らかの力”の助けも借りて、お店はお父さんの存命中に無事完成。福岡カレー通の間で伝説となった『スパイスロード』が、中央区高砂に誕生した。
“改良の真髄”を教わった
オーストラリアでのインドカレー修行
その後、お店は順調に客足を伸ばして繁盛店に。そんな頃、高田さんはお客さんに時々こんなことを言われるようになった。
(高田)「なぜかお店が終わる頃まで残ってるお客さんがいて、なんだろうと思っていたら、“マスター、インド行ったことあんの?”みたいなことを聞いてくるんですよ。そんなことが何度かあったので、そろそろインド行っとかなきゃまずいなと思いまして。ちょうど父が亡くなった保険金が手元にあり、何かいい使い方をしたいと思っていたので、インドに修行に行くことにしました」。
このときもまた“何らかの力”が発動する。インドにツテもなかった高田さん、どうしようか思案していると、10年振りにオーストラリアの友人から電話が。
(高田)「オーストラリアでインド人がオープンしたカレー屋が大人気になっているという話を聞き、インドは食べ歩きにして、オーストラリアのその店で修行させてもらおうと思い付きました。友人の尽力で本当に修行が実現したのですが、その店のカレーは、一口食べて“このカレーだ!”と直感するくらい、オーナーの工夫が詰まった、素晴らしいカレーだったんです。オーストラリアにやってきたオーナーが、現地の人に喜んでもらうために改良を重ねたインドカレー。食べる方のことを思い、味を変えていくことの意味や真髄を、改めて体感させてもらったカレー修行でした」。
日本に戻った高田さんは、インドで知った本場の味、そしてオーストラリアの修行で得た“改良の真髄”を活かし、日本人に愛される“カレーライス”をつくり上げた。その味は多くの人の心をつかみ、『スパイスロード』は伝説と呼ばれるまでの人気店に成長していく。
大病も介護も
“利他”で波乱の人生を切り開く
波乱万丈の道程を経て、不動の人気店を築いたかに思えた矢先。思いも寄らない事態が高田さんを襲った。
(高田)「45歳のときに突然ガンで倒れたんです。それで店は人に譲り、復帰後は料理教室やイベント出店、そして『薬院スパイス』の名前でスパイスキットの販売をしていました。その後コロナを機に『薬院スパイス』での物販をメインにしたのですが、直後に母の介護が必要になって。仕事ができる時間は一日数時間くらいになってしまいましたが、物販メインにしていたおかげで、何とか続けられています」。
自分の大病、そして現在のお母さんの介護も、体力、時間、そして精神的に、大変でないわけがない。でも、今回のような取材や飲食関係者からの相談事など、高田さんは精力的に引き受け続けている。その行動は、実践的な利他※の精神に根差したものだという。
人生のあるとき、特に何もかもうまくいかないと感じていた30代の頃に、高田さんは“利他”を意識し始めた。自分のことばかり考えていたときはうまくいかなかったことが、利他を考えるようになるとうまくいき出した。そしてもうひとつ、自分の人生が“何らかの力”に助けられていると感じたことも、世のために何かをしたいと思うきっかけになった。
最後に今の目標を聞くと、「母より一日でも長く生きられればそれでいいです。あ、でもその後はパートナーのために家事をしたいですね。ずっと助けられているので」。ご自身の人生評は、“お金持ちじゃないけど、感謝できる人生だった”。次々に出てくる面白いエピソードに感じていた、高田さんだからこそ良い結果につながったに違いないという思いが、ここで腑に落ちた。
※利他⋯自分よりも他人の利益や幸福を願うこと。仏教用語では人々の救済に尽力するという意味も。
スパイスとフレッシュなハーブの香りが食欲を刺激するスパイスハーブソルトは、鶏のソテーやパスタと相性◎
手羽中三昧はもちろん手羽中にベストマッチ。スパイシーだが辛すぎず食べやすい
チャイやクラフトコーラといった飲み物キットもあり。オリジナルイラストにも癒される
■■データ■■
※スパイスなどの購入はこちら
『薬院スパイス』
https://spiceroad.stores.jp
※レシピ公開YouTubeチャンネル
『インド七味チャンネル』
https://www.youtube.com/@user-wd7ye9kv7w
『スパイスロード』
https://www.youtube.com/channel/UC9XBRKcI9W0Qkxblql-8Wvw
■■プロフィール■■
●高田健一郎
大学中退後、フリーターとしてバブル期の社会に飛び出す。国内外を放浪し、さまざまな飲食店で働いた後、35歳で大反省。安定企業への就職を志すも、その目前でなぜかカレーの移動販売を始めることに。行列のできる人気店となった後、路面店『スパイスロード』を出店し、カレー通から“伝説”と呼ばれるまでの支持を得る。その後、自身の大病やコロナ禍を経て、現在は母親の介護をしながらスパイスキットの販売をメインに活動中。
■取材・文/橋本文平(メイドイン編集舎)